三連休!~やっぱり釣りが好き~
明日から三連休ですね
が、恐妻組合長が子供を連れて我が家に一台しかない車に乗って実家に遊びに行ってしまうので、オサーンの足は自転車のみ・・・
ま、がんばっても土浦新港あたりまでかな・・・片道約1時間・・・運動不足解消にもなるし。。。
それはさておき、今日たまたま職場で回覧されていた雑誌の中で、たまたまいい文章と出会ったので、以下にずらずらと紹介してみたい。
自分の人生、特に仕事とバスフィッシングに置き換えてみても、まったくもって共感できる部分が多いなと感じました。
~『JR EAST』(9月号秋)COLUMU3 下手の横好き ジャーナリスト 田上幹夫~ より
ふしぎな夢を見た。
ジャングルを縫う大河にボートを浮かべ、私は釣り糸を垂れている。むこうにもう一隻。丸々とした男が時折、ルアー(疑似餌)竿をしゃくっている。見た顔だと思ったら、開高健さんだ。豊饒な言葉を操る作家にして、「釣りは芸術」とのたまうルアーのマエストロ。とうに極楽へ居を移したはずだが。
次の瞬間、あちらに激しい水しぶき。プラチナ色の鱗が陽光にきらめいた。「オーパ(おー)!」という叫び。マエストロが両手に余る怪魚を胸に引き寄せたところで目が覚めた。
釣りが好きである。物心がついたころには竿を握っていた。しかし、誠にしゃくだが、「上手い」と言われたことが無い。それどころか、わずかな自負心さえかすむ目にもあった。
長女を初めて誘い、山奥のフィッシングセンターに出かけたときのこと。素早いイワナが相手なのに、十歳に満たない娘の竿は次々しなり、こちらは坊主に近い。「お父さんの近くにお魚、いないの?」。それは「父の権威」も吹き飛ぶ一言だった。
腕を上げたいと思った。竿を選び、仕掛けを作り、達人の助言に耳を傾けた。本をそろえ、テレビの釣り番組にも目を凝らした。胸まで残る雪の沢をのぼり、荒磯にも立った。だが、半世紀の間、一向に進歩がない。
初の釣果はハゼである。それがよくなかった、と八つ当たり気味に悔やんだこともある。
子供のころ、夏休みは決まって東京を離れ、田舎の祖父母のもとで過ごした。家のすぐ前は利根川。朝食もそこそこに糸を垂れた。腕がなくともハゼは食いつく。
悪い日でも二、三十匹をバケツにおさめ、いっぱしの釣り師気分でいた。祖母は獲物を天ぷらや唐揚げにし、夜の食卓に並べた。おかずを一品増やしたことが誇らしかった。しかし、これが毎日続くといけない。うんざりして竿を放り出す。それが、何日かすると、また、恋しくなる。釣っても逃がせば、持ち帰らずに済むではないか。こうして私は何年も安易な釣りに浸っていたのである。
もちろん、愛すべきハゼは悪くない。
私の方だ。かのマエストロの語録に、「釣りは運、勘、根(気)。つまり、人生だな。」とある。そう、私に欠けるのは二つめの勘働き。釣り上げるときの呼吸、気合だ。
実は仕事でも同じことを感じていた。特ダネを取るさまは釣りに似る。受け身になると、まず釣り落とす。じっくり攻めたのがアダとなり、ビッグなネタが何度もすり抜けた。普段は記憶の底に沈めているが、水面のウキを眺めているときに、ひょっこり頭をもたげ、心は乱れる。
それでも、仕事同様、釣りをあきらめない。おそらく、水に隠れた獲物との対決が生む緊張感がつなぎとめているのだ。その気になれば、頭の中で好きなだけ対決ムードを盛り上げることもできる。妄想力なら、どんな名人にも負けはしない。そして、運よく釣れたら、祖母のように律儀にさばき、我が血肉とする。
ああ、これが我が人生。「横好きのたわごと」と言わば言え、である。
開高健の「フィッシュ・オン」や「オーパ」シリーズは一読の価値ありですぞ!
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